「コミュニケーション能力が低い」などというのは言い訳に過ぎない。要は「コミュニケーションしたくない」というだけなのだ。する意志がないだけなのである。

それを能力などのせいにするから、問題がややこしくなる。そこから自己欺瞞が始まる。そして自己欺瞞は全ての問題をこじれさせる。

もし「自分はコミュニケーション能力が低い」などと思っている人がいたら、そんな考えは即刻捨てた方が良い。そして今から、「自分はコミュニケーションする意志が少ないのだ」と思うと良い。

そうすれば、問題点がクリアになる。そして全ての問題がそうであるように、問題点をクリアにすることが、問題解決への第一歩なのだ。

NHKの番組で紹介しますよ、と言っても、だれも喜びもしないし興奮もしない、むしろただマスコミへの不信感だけが語られていくそのスレの流れを見て、「ああ、そうなんだよなあ」と感慨を抱きました。

1971年生まれのぼくは、ある意味で中途半端、というか移行期の世代で、週刊誌やテレビに敬意や憧れをもっているものの、同時に反発や警戒感ももっているという感じです。

しかし、そのバランスは、世代が下るにつれて確実に後者に振れていっている。いまはもはや、週刊誌やテレビには、最初から週刊誌やテレビが好きなひと、いわば事前にフィルタリングがかかったひとしか寄ってこなくなっているのではないか。実際、自分で仕事を受けていて思いますが、週刊誌に出たりテレビに出たりというのは、そこで超有名になって芸能事務所にでも入ろうとでも思わないかぎり、単体ではそれほどメリットがあるものではない(文化人枠での出演料なんて微々たるものです)。むしろ、読者や視聴者に叩かれることが多くなり、面倒なだけだと言える。にもかかわらず、ぼくがなんとなくそれを受けてしまうのは、ぼくがまだかろうじてマスコミの機能を信じているからなのだろうけど、それはぼく以下の世代では確実に難しくなるでしょう。週刊朝日のひとも、「東さんの世代の書き手がいない」と漏らしていましたが、書き手不足は今後ますます深刻になるかもしれません。

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取材陣が来て「今の政治家と昔の政治家はどこが違うか」と聞かれた。一瞬考えて「戦争を知ると知らぬ、の違いでしょう」と答えた。

戦場に出たかでないだけでなく、戦争を時代として生き抜いたか否かなのである。

消費税率の引き上げに野田総理は命を賭けるというが、命がけとはどういうことか知っての発言だろうか。(そうと)は思えない。

命がけとは文字通り命を賭けることであり、失敗すれば死ぬことを約束することである。政治家を辞めることとは違うのである。野田は余りにも簡単に「命」を使う。

私が見た昭和時代の政治家は戦争体験を持っていた。しかし平成の政治家は幸福にも戦争を知らない。知っているのは平和だけである。

戦争を知る最後の総理大臣は宇野宗佑だった。彼はシベリヤ抑留も体験し、戦場には慰安婦はいたが、あれは国家が運営するものではなかったと体験を交えながら語っていた。

それ以後の総理大臣は戦争体験は無い。

陸軍航空隊の隊員で、特攻隊生き残りだった故園田直によると、戦争を体験するとは命を敵に晒すこと。だから「俺は大砲の弾が炸裂したら、その穴の中に飛び込んで助かった」と良く言っていた。「どんな名手だって砲弾を同じところには着弾させる事は不可能だもの」とさらりと言ってのけた。

隊長として士官学校出の若者が戦場へ着任する。学校で鉄砲の撃ち方は習ってきたが、撃たれるのは生まれて初めて。(あの砲音は)「敵か、味方のか」と五月蝿い。

弱気だと見破られないか、とやたら危険に身を晒したがる。「其処じゃ危険であります」と言っても下がらない。園田が「其処では敵情が見えません、こちらへどうぞ」と岩陰に案内するとほっと溜息をついていた。インテリの弱さか。

昭和50年ごろまで、国会議員の大半はこうした戦場体験をもっていて「命」とは何かを知っていた。

そうした議員は決して利己主義者ではなかった。戦争の苦難のなかで利害得失を仲間と分かつべきことを哲学としていた。小沢佐重喜は安保改訂に身を投げたが、息子の一郎はカネを懐にするのに忙しいのはこの差を物語るものではないか。

昨今の政治家は徹底的な利己主義に陥っている。小選挙区制になった所為もあって、「競争相手より立派に見える」工夫はするが、それ以外の事は絶対しない。

もっと言えば選挙民の幸福などは考えたこともない。選挙民の幸福を「考えているように振舞う」ことを知っているだけだ。鳩山や菅はその典型だと思う。

だから政治評論は憂鬱な作業だ。(敬称略)。

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小さい頃祖父や祖母に
「働く事は美徳だけど程々にしないと駄目だよ。人間は仕事ばかりやっていると人格が草臥れちゃうから遊びも大事」ということを言われたのを覚えています。
朝畑に行く→お昼間は昼寝(夏場だと暑いのでw)→夕方食事や明日の支度→夜9時には就寝
こんな感じの生活でした。
戦前生まれの人たちで農家なので休みは少なかったですが
俗に言うスローライフで今の都会での仕事よりはるかに精神的に楽でしたし、肉体的にも健康的でした。
勿論遊びもちゃんとやる

こ戦後の団塊&バブル世代のイケイケの時代で生きていた人には泥(奴隷)のように働く事が美徳と価値観が変わっていったんじゃないかて思うときがあります。
その顛末は若者を奴隷のように扱うという酷い惨事
自分達の若いころの事を自慢げに話す馬鹿がいますが、聞いている方がもっと悲惨で厳しい状態だというのに。

経団連は移民を受け入れようとしていますが
「自分から見れば日本の奴隷は働くことを拒否しているから外人の奴隷を雇おう」
という風にしか見えない

彼ら団塊世代が嫌いな戦中の軍人山本五十六でさえ
『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、
褒めてやらねば人は動かじ』
こんな言葉まで残しているのに現在の日本人はソレは甘えだと切り捨てるんですよね
ほんと頭がイカレてるとしか思えないわ

徳力さんは、「ウェブで著名になることは必然的に批判に晒されるものであり考えるべきではないのでイケダハヤトは何を言っちゃってるの馬鹿じゃないの死ねよ」という意見です。

 一方でコグレさんは「そもそも自分自身ウェブで叩かれてないし、批判をされない方法なんて幾らでもあるし、イケダハヤトは何を言っちゃってるの馬鹿じゃないの死ねよ」という意見です。似ているようで、両者全然違いますね。

 もっとも、私は自分自身で資産を持ち経営をし、家族を養っているので、比較的そういう議論からすれば中立の立場にあるはずなんだけれども、岡田さんが評価経済や! と言ったところで「まあ、岡田さんはやりたいことをやるための金があるだろうから、そういう言いたいことも言えるんだろうけどさあ」みたいに思ってしまうわけで。それでも、岡田さんの書くものは刺激的で面白いからみんな見てしまうんですよね(フォロー)。

 まあ、社会的文化人は忘れ去られないために、煽るのも必死なんだなと斜に構えた感じで現場からの報告は以上であります。

長年やってきて痛感しているのは、自分を嫌っている人に嫌われないように書くより、応援してくれる人に喜んでもらえるように書いたほうが楽しい、ということだ。というか、ネット上のやりとりで他人を「説得」するのは無理だ。

科学リテラシーとは、科学キーワードが並んでいて一見すごそうに見える文章と、ちゃんと内容がわかって書いている人の文章の違いを見抜くことができることじゃないだろうか。
about 11 hours ago via web

そして、その科学リテラシーをつけるには、一冊の本を半年かけて読むという能力が重要。
about 11 hours ago via web

一冊の本を半年かけて読むというのは、だらだら読むんじゃなくて、ノートを決めて、机に向かって、毎日読む。論理的にギャップがあったら、それは「わからなかった」という意味なので、わかるまで読む。少し先を読んでまた戻って何度でも読む。
about 11 hours ago via web

読み終わったら、(手を洗っていても)指のあかと、鉛筆の粉で黒くなるまで読む、というふつうの本の読み方なんじゃないでしょうか。
about 11 hours ago via web

読むのは、とても難しい本である必要はなくて、スタンダードな教科書でよいと思うのです。たとえば、ポリヤの「組み合わせ論入門」とか。渡辺治さんの本とか。ちゃんと書かれた本ならば、1年生向けの本で全然かまわないと思います。
about 11 hours ago via web

でも、そうやってちゃんと1冊半年かけて読んだなら、キーワードの陳列や、他人のふんどし、という類の文章と、本当にそこでちゃんと戦った人の文章の違いがわかるようになると思います。
about 11 hours ago via web

それって、おいしい梅干しを作るのと同じで、「裏技」なんてないと私は思う。
about 11 hours ago via web

そう考えると、本が出たあとすぐにAmazonにレビューが載るのなんて、書き手として喜んじゃいけないな。それは1日で読めちゃいました、っていう意味だもん。(自戒をこめて。)
about 10 hours ago via web

norico (noricoco) on Twitter

国立情報学研究所の数学者である新井紀子さんの数学書の読み方。実はさきほどの、竹山美宏さんの一連のTweetはこの新井さんのTweetの返歌である。

これも素晴らしい。とくに「机に向かって、毎日読む。論理的にギャップがあったら、それは「わからなかった」という意味なので、わかるまで読む」という部分が。

勉強になります。

(via kashino) (via yuco)

(via otsune)

2010-05-11

(via quote-over100notes-jp)
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そもそも人間が3食とらなければならないという必然性はまったくない。野生動物は、食料を得るために活動する。食べた後は、動かずに寝る。これが自然の摂理。

人間も同じ。食料を求めて長距離を移動した。「空腹だから動けない」というのは誤りで、「空腹を満たすために動く」のだ。もしヒトに「空腹でも動きつづけられる機構」が備わっていなければ、現生人類であるヒトは絶滅していただろう。

この「空腹でも動きつづけられる機構」がポイント。

さて、樹上からアフリカの原野におりたとき、何を食べていたのか。

核心は、

「親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る (中公新書) (新書) 」

に譲るとして、江部、釜池両氏ともこれを引用している。

著者島氏は死んだ動物の「骨」を提唱。釜池氏はそこから発展させて、動物の死骸の骨を石で叩き割った後、骨髄を取り出して食べていたとする。江部氏も骨髄主食説をブログで認めている。菜食主義者が聞いたら卒倒しそうな説である。

「書きたくなったら書く」とか「締切間際にあわてて書く」というのは生産性が悪杉。
とにかく時間を決めて書くことを義務づけると自然と書き溜まるのだそうだ。
書いてると新しいアイデアも出てくる。
締切オリエンテッドなやり方は全然駄目らしい。耳が痛い。
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93年に地震と津波に襲われ、200人弱の犠牲者を出した北海道奥尻島。政府は約1000億円かけて復興プロジェクトを進め、海岸線には高さ10mの防潮堤が造られた。その結果、島の人口は4679人→3160人へと激減し、多くの若者が島を出た。

Twitter / @taishibrian

東 大史 Taishi AZUMAさん。
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続き。
「復興プロジェクトによって建設業を中心に特需が発生した。実入りのよい仕事に慣れた若者は重労働の漁業に戻ろうとは思わず、サラリーマンになろうと島を去った。」

(via aso)

―― 日本企業だけが「総合職」という名の下、全員にエリートであると思わせていることが、一番の問題だということですか。

その通りです。このような状況が続いているから、環境の変化に適切に対応していくことができないのです。大卒者の場合、全員をエリートとして入社させるので、その人たち全員を課長にしなくてはなりません。事実、少し前まで大卒男子に限って言えば、8~9割が課長になることができました。ところが、課長になると管理業務がメーンであまり現場では働かなくなり、営業や実務からは遠ざかっていきます。実務ができないのに給料が高いままなので、「定年制」が必要となります。

欧州の定年は65歳ですが、ドイツのように定年制が存在しない国もあります。アメリカも定年制があるのは一定以上の、給料がものすごく高い人たちだけです。ノンエリートで、現場で営業をやったり、専門的な仕事をしたりしている人は65歳になっても、大きく能力が衰えるわけではありませんから、定年という考え方がないのです。それに対して日本企業では、増えすぎた幹部たちの給料が高いため、辞めてもらわなくてはならない。さらに言えば、日本企業は幹部以外の多くが非正規社員という、いびつな構造になっています。

本当は35歳くらいになった時には、幹部候補の中でも実力的に相当な差が付いていて、一軍と二軍ができているのです。それにもかかわらず、二軍の人たちを課長に昇進させるというやり方は、いい加減に止めなくてはいけません。何より、会社の体力が持たないでしょう。